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修正指導案(テープ起こしから再構成)

 高校1年生の冬休み明け。生徒のだれた雰囲気が気になり、前向きな心構えを持たせたいと考えた。通常の授業をつぶして取り組んだ特別授業である。感想文では、手応え十分であった。指導案再構成にあたっては、説明の部分を大幅に削除しています。

佐々木基
TOSS北極星TOSS高校・専門学校ネットサークル
開設2005/2/20

発問1.誰ですか。

志村けん。

指示1.一行目に答え、書きます。一行目に答え書きます。

正解は志村けん。あってたら○をつけます。

発問2.志村けんって、どんな人ですか。
指示2.あの、思いつくイメージを箇条書きにします。

列指名で答えさせる。

優しい人。ドリフターズ。おもしろい人。バカ殿。良くしゃべる人。スケベ。はげ。おばあちゃんの物まね。おもしろい人。

発問3.志村けんさんがコメディアンを志した、将来はコメディアンになろう、と最初に思ったのは何歳のころだと思いますか。
指示3.予想を答えます。

列指名で答えさせる。

15才。14才。10才。19才。

正解は13才。

説明1.きっかけは小学校4年のころ。決心が13才中学校1年のころで すね。小学校4年生のころにこんなエピソードがあります。
お父さんは小学校の教頭先生をしていて、校長先生になるための勉強していました。食後すぐ部屋にこもって勉強をする。うるさくすると怒られるという家庭に育ちました。 ですから、すごく暗くて陰気な雰囲気の家庭でした。
ちょうどそのころ志村さんのうちでテレビを買いました。テレビ番組で、柳家金五郎の落語、三木のり平の中継を放送しました。そうしたらいつも怒ったような顔をしているお父さんも笑っているんですね。その時だけは家の中が明るくなったそうです。
それで、志村さんは
「笑いは家庭の中まで明るくする力があるんだな。すごいんだな」
と思うようになっていました。 そして中学校の担任の先生から「中学校までは義務教育だ。義務教育が終わったらば、好きなことをして頑張んなさい」と言われました。 「そうか、それなら高校卒業したあとは思い通りお笑いの世界に入ろう」と思うようになりました。 小学校から中学校にかけて、クラスの中では、友達におもしろいことをして笑いを取る、そういうタイプの生徒だったそうです。コント55号とドリフターズが憧れの人たちでした。
「弟子入りするんならどっちにしようかな」
と思っていたそうです。 ギターにも興味があったので、音楽もやるドリフターズの弟子入りをしようと考えました。 卒業目前の2月、いかりや長助さんを訪問します。
お昼についたのですが、留守でした。今日会えなかったらいつ会えるかわからないと思って待つことにしました。雪が降ってきました。2時間3時間待っても帰ってきません。夜中の12時ころ、やっと帰ってきました。
「ぜひ、弟子入りしたいんです」
「今日はもう遅いから帰りなさい。ね、どうしてもやりたいんだったらまたあとで連絡します」
一週間後連絡が来ました。
「今まで働いていた付き人が辞めたので、明日から来ないか。」

発問4.志村さんはこの時、どうしたと思いますか。
指示4.三番目に予想を書きます。

説明2. 志村さんは
「卒業したら行きます」
と返事しました。
 いかりや長助さんはその返事を聞いてすぐにこう言いました。
「バカ野郎、明日から東北一週間の旅だ、すぐ来い」

発問5.志村さんはその返事を聞いてどうしたと思いますか。

 断ったと思う人。

 すぐ行ったと思う人。

 正解はすぐ行ったんです。荷物をまとめてすぐ行きました。

説明3. 付き人生活の始まりです。月給5000円。そこから税金1割取 られて手取りが4500円。まともな生活できませんね。
仕事も具体的には何もさせてもらえません。ギター、ドラムスなどの荷物を運ぶ。身の回りのお世話をする。1年、2年、3年。仕事らしい仕事をさせてもらえませんでした。履く靴がなくなって裸足で歩いたそうです。電車乗るのも、町の中を歩くのも、はだし。ドリフターズが時代劇に出たとき、草鞋を譲ってもらって履いて歩いたこともありました。草鞋のほうが目立ってしまって、とじろじろ見られた経験もあるそうです。
仕方がないので、付き人をしていたもう一人の若者と一緒に「マックボンボン」というお笑いのコンビを作ってデビューをしました。レギュラー番組も一本もらいました。けれど全然芽が出ませんでした。
それは、相棒の方に志村さんほどの熱意がなかったからです。
志村さんはまた付き人に戻りました。そうこうするうちにとうとう7年、たってしまいました。
 志村さんは24歳。
 荒井注さんが体力の限界を理由に引退をしました。
ドリフターズの一員としてデビューすることになりました。
 ドリフターズが出てきて子どもたちやお年寄りがみんな大喜びしている。荒井注さんが出てくる場面の変わりに志村さんが出てくると、「何だこの人」急に会場がシラーとなっちゃったそうです。毎週、毎週、志村さんが出てくると会場が白けてくる。
あまりにひどいので、ドリフターズの「8時だよ、全員集合」という番組は2ヶ月間放送休止。今までの取り貯めたビデオを放送してあまりの不人気を乗り切ったそうです。

発問6.その時、志村さんはどう思ったでしょうか。辞めようと思ったでしょうか、辞めようとは思わなかったでしょうか。どちらですか
指示6.手を挙げてもらいます。

 辞めようと思ったなあと思う人。

 辞めないと思っただろうなあと思う人。

発問7.もし志村さんの立場に自分がいたらどうしますか。
指示7.その理由も書いてみましょう。

 自分だったら辞めない、と書いた人。理由発表できますか。

 辞めると書いた人。理由発表できますか。

説明3. 最近のインタビューで、そのころの思い出を話したとき、インタビューアーから、辞めようと思わなかったんですかと聞かれました。
 志村さんは顔をキュッと引き締めて、「そんな根性で入ってないですもん、この道に」と答えました。
 インタビューアーは怒られたような気持ちになったそうです。
 全く受けなかった2年間。血の出るような必死の稽古。ネタも一生懸命工夫して自分で作りました。どんなに辛いことがあっても一度も辞めようと思ったことはなかったそうです。そうやって耐えて2年間。東村山音頭というのが急にはやり出しました。努 力が報われたのです。その後立て続けに、ヒゲダンス、バカ殿様変なおじさん、次々にギャグやコントを生み出していきました。
 志村さんの現在の夢は何でしょう。
今はテレビを中心に活躍していますが、ドリフターズの時代のように、いつかまた舞台をやりたい、という夢に向かって志村さんは今もコント作りに日夜励んでいます。
起きているときのほとんどの時間、コントを考えているのです。
酔っぱらって帰宅してからも台本を書いているのです。最近のお笑いタレントは、しゃべりで笑いを取るのがほとんどですが、志村さんは作り込んだコントにこだわっています。志村さんが得意とする笑いは、いかにもアドリブに見える部分でも、考えに考え作りに作った、いわば努力の笑いなのです。
 志村さんは著書の中で次のように書いています。
 僕の好きな言葉は忍耐、努力、心だ。そもそも何の仕事にしてもそうだと思うけど、本当にいやだったら辞めればいい。でも、辞めないってことは自分が好きで選んだ道だ、ということだし、やり遂げる責任も負うことになる。だから少々嫌なことや辛いことがあってもそれは自分が我慢すればいいことじゃないか、僕はそう思ってしまう。そして、自分のやりたいことが出来るようになるまで、もっともっと努力すればいい。とも思う。もちろん楽な努力というものはあるわけがないから、忍耐と努力はイコールなのかもしれない。天才なんてどこにもいない。ある意味じゃ、努力できる人間が天才なんだ。でも最近は、その前に辞めちゃう人があまりにも多いんだよ。辛いことのあとには必ず楽しいことがある。それは間違いないんだから、自分が選んだことをとことんやり遂げる ことが出来るかどうか。

指示8.今日の授業を受けて、残ったスペースに感想を書きます。