テープを聴いての第一印象は「私語が多い」である。テープ起こしを見ても明らかである。私語は防げるものなら防ぎたい。
しかし、私の場合、現実問題として、私語は防ぎきれない。私語の注意で授業が中断するより、優れた発問・指示によって自然と生徒を授業に集中させたいと思う。
注意によって私語を防止していては、自分の発問が生徒の興味・関心を呼び起こす優れたものか、いつまでも分からないと考えているからである。
今回の授業の中でもいつの間にか私語の減った場面があった。
本時の基本問題に取り組んでいるときの生徒の私語にも現れている。「授業進んでる。俺ら進んでるぞ、授業」「いつも通りになってきたね」「いつも通りなってきたね」「やっといつも通りになってきたべ」
生徒は、どんなとき、こうした活動を見せるのだろうか。
この時の発問は、
1.最初に書くのは何ですか。
2.次に書くのは何ですか。
3.三番目は何ですか。
である。
これは直前の復習問題をさらに復習している。ちゃんと聞いていれば誰でも出来る発問になっている。そして、「授業進んでる。俺ら進んでるぞ、授業」と言っている生徒以外はほとんどが発問に対応して答えを考えている。その時、静かになるのである。その雰囲気に対して、この生徒が「授業進んでいる」と感じたのである。
「誰でも出来る」は重要なキーワードの可能性がある。上記のように、自然と静かになるからである。しかし、逆の側面もある。それは、学習内容が幼稚な印象を与えるということである。「そんな簡単なこと、真剣に聞かなくても分かる。」「ノートに取らなくても分かる。」というように学習内容をなめてしまうのである。全員が出来るよう、発問指示を細分化していることが逆効果になっている。
もし、生徒が学習内容をなめてしまうとすれば、それはこれまでの授業の構成、発問・指示に誤りがあったのだ。良かれと思って、「誰でも分かる」ように授業を組み立てた結果、深く考えなくても分かる発問が多かったのだ。その結果、生徒にとって授業がくだらないものに成り下がってしまったと言える。
「誰でも出来る」ためには、思考のステップを細分化するのが定跡である。入試問題を解く場合でも、「分ければ判る」と言うくらいである。ただ単に機械的な細分化を繰り返した結果、生徒になめられる結果となったと感じた。細分化する際に知的さを失わないような工夫が必要だった。
「やったあーーー」「やり方、わかんないべー」「誰か、教えてよ」「わかんないよね」「わかった、絶対わかった」
このような私語は一見規律の維持できない生徒が学習に向かう意欲を持っていることを表している。
教師が学習規律で縛り付けなくても、生徒が自立的に学習に向かう可能性のあることを示している。